自分は女の子で、弟のコーイチ君は男の子だと知る。お風呂に一緒にはいって男の子には自分にないおちんちんがあるのに気付く。おしっこのでかたが違うことも知る。
お父さんは毎日会社に行く。そのお父さんが会社で稼いだお金があれば、おやつやジュースを買ったりできる。「お父さんは貧乏」というのはうそで、いつもお財布にはプリキュアのがちゃがちゃができるお金がたくさん入っているのを知っている。
自分が永遠に子供ではなく成長する存在だということを知る。自分には親がいて、そのまた親がおじいちゃんおばあちゃんであることを知る。おじいちゃんは年取ってるので頭が白いことを知る。そしてそのさらにおじいちゃんおばあちゃんは遠いお空の上にいることを知る。つまり人とはどういう存在かをぼんやりと知る。
久しぶりに会う大好きなおばあちゃんは、ももちゃんが来るのを楽しみにしていることを知る。だから帰る時はお婆ちゃんはとっても寂しいのだということ知る。自分がもう少し居ればおばあちゃんを喜ばすことができるのだと悟る。
闇が怖くなる。母親のぬくもりを感じる灯りが襖の間から見えないと夜寝ることができない。時計の針が10になるとお化けの時間になると信じてる。
いい加減なことをいってだますことはできなくなる。
不完全ながらも自分と対等な存在になってくる。だから一人の個人としてきちんと接しなければいけない。
思い返してみると、いろいろな小説や映画で、一個のキャラクターとして活きてくるのは4歳から。
「となりのトトロ」でトウモロコシを母親にあげようと行方不明になっていまうメイは4歳。
「火垂れるの墓」で最後に防空壕で餓死してしまう節子も4歳。禁じられた遊びのラストシーンでママと叫んだポーレットも4つか5つだろう。
戦争というどうしようもない状況の中で、世の中を少し理解しはじめた無垢な存在の切なさが際立つ。もしも自分がもう半世紀早く生まれて、そうした小説、映画の子供の親だったら、、そう思うととても心が苦しくなってくるし、今の自分と家族はずいぶんと平和で恵まれてるんだなあ、と感じる。
そういえば今まで残留孤児の再開場面や、拉致家族の必死な姿をテレビ番組でみかけても何かで他人事のような温度差を感じていた。だけど、今はそういう番組の画面をさらりと見過ごすことができなくなった。
別に僕が特別、冷たかったとか、あるいは同情しやすい性質になったとか、そういうことではなくて、純粋に自分に重ねて考えることができるようになったからだろう。
少し感傷的である。人生も折り返しにきたせいだろうか? あと1週間で「不惑」
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