はるか昔。そう、もう遠い過去のことになってしまったが、今から20年ほど前受験生だった頃のこと。
受験にはいろいろな言い伝え、法則、ジンクスがあった。僕が良く覚えているのは、有名大学に合格するためには、「学校のある日で4時間、休み中は毎日8時間勉強する」というものである。
毎日8時間。今サラリーマンとして生活している自分にとっては、むしろ楽チンに聞こえるノルマでもある。しかし受験生の当時、これは相当高いハードルだった。
いや、正直なことを言えば、一度も超えることが出来ない壁だった。
今でも良く覚えている。勉強がとても脂に乗っている時期・・・恐らく冬休みだろう。時計を見ながら一日の勉強量を足し算していったことがある。ところが、これでもかと勉強した日でもその合計値は7時間台に留まった。
一方、周りには8時間、9時間勉強している、という友人が複数いた。自分は随分と堪え性がないのか、少し悲観的になったこともある。
しかし後に、自分が何故8時間の壁を越えられなかったのか、その理由が分かった。
それは努力の問題ではなく、数え方だった。
「勉強時間」
この定義をどうとらえるか、これは人によって相当違う。
自分の部屋に入っている時間、勉強机に向かっている時間、鉛筆を手にしている時間。集中して頭を回転させている時間。。。。
自分は、かなり厳しい方、つまり、教科書を開いて読んでいるか、ノートに書き込みをしているか、そういう時間を勉強時間と捕らえていた。そしてそういう時間を一日8時間過ごすことは、時間的な制約よりも脳の集中力の点から限界があったのだ。
一方、8時間、9時間毎日勉強していた友人は、机に向かっている時間を勉強時間と捕らえていた。
合間に空を眺める時間、コーヒーを飲んでほっと一息つく時間。ラジオに耳を傾ける時間。それも彼にとっては勉強時間だった。
閑話休題
数字は、物事を比較する上ではこの上なく便利だ。そのものの対象すべてを理解しなくても、評価の土台に載せることができるし、万人の目安にもなる。だから物事を数値化して判断することが何にでも求められるし、それができる人が技術者であれマネーを扱う達人であれ、そして時として競技者であれ優秀だと判断されるのだ。
しかし、数える根本的な基準、ベース、思想が合わなければどうだろうか。そのまちまちの土台の上に数値化しても、決して物事をきちんと比較できないし、むしろ分かりやすい数字で出てくる分、誤解を生むというリスクを孕む。
同じような例はいくらでもあるだろう。上の例に近く注意が必要なのは、「トレーニング量」である。トレーニングと非トレーニングの境界の定義が人によって曖昧であれば、その中身は全く異なる。
「今日は大リーグの○△選手が自主トレを始動。午前中に3時間のトレーニングでたっぷりと汗をかきました」
スポーツニュースで伝えた時、果たして、あなたの、あるいは僕の数え方で彼は何時間トレーニングしたのだろうか?ストレッチや整理体操、インターバルをトレーニングに含まなければ、2時間?1時間?いや、もしかしたら正味30分かもしれない。
そういう意味でいろいろな記事、インタビューのコメントは、絶対の情報として信頼するには不十分な場合が多い。
その表現からあなたがイメージする内容と、本当の中身とは、必ずしも同じとは限らないからだ。
色々なところから積極的に貪欲に情報を得て、そこから学ぶことは、とても重要なこと。だけど-これはオリエンテーリングの情報処理ととてもにているのだけど-その情報は決して100%としてインプットせず、一定の曖昧さをもって取り入れることが大切である。
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