土曜日, 5月 02, 2015

UTMF2014 完走記 その3 -A8からゴールまで‐

A8到着 104.4km 14時間24分、in69位、out62位
この先の天子山塊が一番の山場、ここの戦略が重要である。次のエイドまでは5時間近くかかる。いくら気温が低くてペースがゆっくりといっても水分はレース中一番必要となる。その他の区間は1Lあれば十分だけど、この区間はそれでは足りない。いつも通り650mLのボトルと400mLのプラバックを満タンした他、この区間用に用意したもう一つのプバッグ(400mL)を持参した。

ただ、ここの補給ではひとつ失敗を犯した。エイドには地元のおまんじゅうが並んでおり、ボランティアの女性に「いかがですか?」と笑顔で勧められたのだ。(もちろんその女性に悪気はない) そして釣られて食べてしまった。推定150kcal。それまで本能の赴くままに補給してきたのだが唯一ここで、身体は欲していないのに食べてしまう。飲み込み終えると少々度を超えた満腹感がきた。
その時は、「このくらいなら大丈夫」だと思ったのだが、結局あとで後悔することとなる。

ここでは荷物チェックもある。村越さんが役員をしていた。難なくチェック完了。14時29分。ところがここでチェックにひかかっている選手が一人いた。地図らしい。外国の女性選手でブラジルの選手だ。しきりになにか理由をアピールして役員と議論していた。ちょっと気になったけどこちらのレースもあるので、そのままエイドを後にした。結果なんとか説明がついたのだろう。この選手には後で何度か抜きつ抜かれつして最後僅差で負けたのだが女子で5位入賞している。

市街地のロードを抜けて、水路の脇の道を登り、山道に入るといよいよ斜面はきつくなっていく。このころにはすっかり明るなった。まだ6時というのに昼間のように太陽の日差しさ強くなってきた。約800mの一気登り。ここをトラブルなく乗り切ることがこのレース最大のポイントだ。

急登のつづら折りを延々登る。まだ足取りはしっかりしている。はるか下からハイペースで登ってくる選手が一人いた。海外の男性選手だ。ながい脚でひょいひょい斜面を登ってくる。追いつかれて並走「どこから来たの?」と聞くと「UK、きつい登りだね」と短い言葉を残してさっさと登ってしまった。
またポツンと急な斜面で一人ぼっちになった。

登りも半分を過ぎた頃に、とうとう始めのトラブルが訪れた。

「睡魔」である。これは後で気付いたのだが、歩くような急登は睡魔が襲いやすい。着地などで反射神経を使う必要がないからだろうか、平地で走っている限りは眠気は襲ってこないが、歩くとたんに眠くなる。
朝の7時近くになっている。昨年眠くなったのとだいたい同じ時間帯だ。ペースが鈍る。斜面の遥か下には2人ほどの選手が近付いてくるのが見える。抜かれるのはしゃくだが我慢できず、とうとう、急登のつづら折りの脇で座り込んで目をつむった。

目をつむるとこんなに気持ちいいのか、とたんに意識が一瞬で遠のいていく。。。。。意識が深いところに落ちて完全に気を失う。・・・・・・・

・・・・・・はっと起きた。

ふと見ると、先ほどの2人の選手が少し上を登っている。
恐らく3分くらいだろう。それでも眠気は大分おさまった。

再び歩きはじめる。少し歩くとまた眠気が抑えられなくなる。座って3分目をつむる。これを3回ほど繰り返したところで天子ガ岳についた。そこからは尾根道となり、走りのリズムが変わって眠気も影をひそめてる。よし、まだそれほどのロスじゃない。このスキに尾根道も頑張ろう。

ただ、この尾根は想像以上にきつかった。登り基調の上にアップダウンが大きい。登りがきついと眠気が時々襲う。さらに、7時頃から気温が急激にあがり、汗のかく量が増え、水の消費も激しくなった。

途中のピークで、登りをさっさと登ってたUKの選手が座り込んでいた。どうやら水切れをおこしたらしい。
このあたり、気付けば抜きつ抜かれつする選手は半分以上が外国の選手だった。想定外の暑さとアップダウンの厳しさに皆閉口してペースの維持に苦労している。こちらもまたいくつかのピークの前で2,3度睡魔に襲われ座り込みペースは大分鈍っていた。

難関の熊森山は越えた後、とぼとぼ歩いているポルトガルの選手が「水を少しもらえないか?」と空のボトルを見せて頼んできた。ボトルにはまだ400mLくらい残っていたので、半分ゆずることにした。彼は僕の手からボトルを(ひったくるように)とると自分のボトルに勢いよく入れ、「半分だよな」、と6割くらいを入れてからごくごく飲んだ。彼はものすごく嬉しそうにお礼をいって歩き出した。ペースは彼の方が速くて見えなくなった。ほどなく僕のボトルも空になったが、もう下り基調だから大丈夫と考えてた。

 ところが、その先少し歩いていて目の前にそびえる高い山をみて絶望的になる。雪見岳だ。地図の等高線まで良く見てなかったので、最後の雪見岳が一番高く、その手前に250m近い登りがあることにまったく気づいてなかった。想定していなかっただけに、落胆は大きい。水がもうないと喉の渇きも余計に気になる。先ほど水を恵んだことが恨めしくなった。気温はますますあがってるようだ。
それでも前に進むしかない。登っては休み登っては休みの繰り返し。尾根上で抜きつ抜かれつしていた選手にはほぼ全員抜かされて見えなくなった。

 随分時間をかけたようだが、漸く雪見岳を通過。そこからは完全下り基調で、気分を取り直して進む。下りは厳しかった。ほとんどトレイルのない倒木だらけの急斜面に点々とマーキングがついている。オリエンテーリングで下る急斜面のようである。19時間も走ってる身体には、脚のブレーキがきかず、ぎこちなくしか降りられない。それでも周りの選手よりは得意なようで、尾根で置いて行かれたの選手を幾人か抜いた。もういい加減勘弁してくれ!と悲鳴を上げたくなる頃に漸く真っ平らな麓が見えてきた。

A9到着 123.3km 19時23分 in66位、out63位
5時間近くを天子山塊で費やし、軽い脱水症状、さらにトイレにも行きたくなり、ここでは10分程度の休憩をとった。休憩中の時計の針が恨めしく、はじめて次に向かうのに気力が必要なエイドになった。でもここからが本当の100マイルである。

休憩中、奥の方で何やら色々な人に囲まれてる選手がいる。その選手が走りだすと大きな拍手と声援が沸き起こった。と同時に「今日は、ちょっと厳しいかな」という観客の話し声が聞こえた。誰だろう?後ろ姿に見覚えがあるが。。。。

その選手の1分後くらいに、ひっそりと走りだす。10分ほど走った頃だろうか。河原でその選手が荷物をおいて、スポンサーの沢山ついたウエアを脱いでいた。暑さ調整だろうか、
そう、石川弘樹さんだった。

「こんにちは!」抜く時に声をかける。向こうも挨拶してくれた。いつものさわやかな笑顔だった。その後は平らな林や草っぱらを縫うように走るトレイル。夏の陽気にも近い午前中、身体は疲れてたけどとてもリフレッシュする区間だ。

「ごついコースですよね」後ろから声がした。石川さんだった。「みんな良く走るよなあー」
石川さんらしい感想だな、と思った。アメリカなど比較的マイルドなトレイルを好む石川さんのプロデュースする、信越や斑尾は快適なトレイルコースで有名だ。「僕も信越のコースの方がいいです」と答えた。この時は心からそう感じたので素直な感想だ。

石川さんとはさすがにペース差があるのでじりじり離れていき、また一人になる。そのまま1時間ほど平らなエリアは一人で走った。途中とぼとぼ歩く2名の外国人選手を抜いた。A9でトラブッていたブラジルの女性選手とドイツの女性選手。ドイツの選手はA9までいいペースだったものの、A10でリタイヤしている。

その後、(何かトラブルを抱えていたのだろうか)石川さんに再び追いつき追いぬいた。その後石川さんには最後に抜かれるまで会わなかった。
 竜ケ岳の登りに差しかかった。辛いけれど着実に登ることができた。天子ガ岳山塊で失われたエネルギーと闘志がまた充電してきたようだ。

頂上手前で、軽装のトレイルランナーに抜かれた。誰かの応援の人だろうか、羨ましいくらいに軽快に走って斜面を登っていく。
「鹿島田さん!」
許田君だった。

 許田君はオリエンティアからトレイルランナーに転向した選手としては初期の成功者でハセツネで4位にもなった実力者である。ここ数年は激務と子育てで第一線からは退いているが、自然の中を走ることが心から好きなタイプの人である。彼が大学時代にはらアメリカ遠征をともにしたこともあり、旧知の知人である。
「この位置でその脚どりはいけるんじゃないですか?」

 その言葉に勇気づけられる。確かにその時は比較的リズムよく下れていた。あるいは少し気負って少しだけオ―バペースだったかもしれないのだけど。 
 彼がスマホでRunner's up dateで順位を調べてくれた。ここまで順位というものはまったく分からず意識していなかった。ただ昨年の100位以内には入っててほしいな、とは思っていた。
 彼の調査では66位。思ったより上位だった。崩れなければ100位以内はいけるだろう。

A10 到着 138.6km 22時間17分 in59位、out54位
 ここでは食糧補給と給水を実施。あまり長居をしたつもりはないが記録上は5分くらいかかっている。
次の区間の前半は未知の区間。エイドから裏の尾根に登っていく。足取りはしっかりしているが、登りは元来強くない。1人の日本人選手にさっさと抜かれるが、気にせず自分のペペースで登る。
 尾根に乗ってからは適度な起伏の快適なトレイルだった。鏑木さんが、「延長した区間もとても良いトレイルだ」といっていたのを思い出した。そろそろ丸1日たったとは思えないくらい快適に脚が進む。

 尾根道の途中で2人選手を抜かす。一人はさっき抜かれた選手、もう一人は柳下君だった。ペースは鈍っているようだった。何かトラブルがあったらしい。このUTMF前には普通のサラリーマンとしては想像を超えるトレーニングをしていることを聞いていただけに、なんとなく僕にとっても残念だったし、このレースの難しさを見ているような気がした。
 烏帽子岳の急斜面も脚は快調に動いてくれた。そして今回のレースで快適に走れる最後の区間だった。

 斜面を下りきったところから異変が起きた。身体に急に力が入らなくなった。飯バテと思い、補給しようとすると胃が受け付けなくなった。胃腸のトラブルだ。

 ここから最後のエイドA11までは本栖湖湖畔の溶岩地形が作る独特の雰囲気の平らな森で本来快適な区間のはず。なのに、足取りが少しづつ遅くなる。時間も夕方になりかけて気分的にも少し滅入る頃だ。
 烏帽子岳の下りで胃腸にダメージを受けたのだろうか。A8で食べてから若干違和感のあった胃腸がここで急に悪化した。
 雪見岳で助けたポルトガル人に抜かれた。彼も決して脚取りは良くないのだが。最後のロードも走り切れず、「80歩走って40歩あるいて」とルールを決めてとぼとぼ延々と走った。1,2名の選手に抜かれた。

A11 到着 157.6km 26時間15分、55位
 胃の調子が最悪になった。あったかいお茶をもらい飲むが食べ物は受け付けない。寒さも身体に感じはじめた。毛布をもらって身体をあたためる。スタッフも心配そうに、「大丈夫ですか」としきりに声をかけてくれる。

15分くらい休んだろうか。結局胃は治らず何も受け付けないが、なんとなく本能的にパンが良さそうに感じて、小さなパンを2つほどもらい、かばんのポケットにつめて次に向かった。

ここからは辛かったことしか覚えてない。足和田山に向けた登りでは、歩くのがやっと。一人、また一人と抜かれていく。
とうとう飯バテ気味になって、道の途中で寝転んだ。胃は痙攣をおこし何も受け付けない。どうしよう?少し寝て胃が収まるのを待つしかない。。。

どうしようもなく、ただ横になって10分くらいたったろうか。
「暗くなる前にゴールしましょう!」
通りすがりに励ましてくれる選手がいると思ったら石川弘樹さんだった。

いわれてみると、夕暮れ時となり、あたりは大分暗くなってきた。走りはじめて2度目の夜が近づいている。
その言葉に少し元気をもらったかもしれない。かばんに詰め込んでいたパンのことを思い出して口に入れてみると、なんとか飲み込むことができた。それで少し力がわいてきた。
とぼとぼと歩きはじめる。やがて暗くなり始めてライトをつけた。下りになれば何とか走れるだろう。なんとか足和田山を越えれば。

真っ暗になるころには歩くペースも少しづつ戻る。闘志が少しづつもどってきたのだろうか。ふと後ろをみると遠くにライトがポツンと見えた。もう抜かされるのはやめよう。このライトには勝とう。そう決めると急に身体にエネルギーがわいてきた。程なく登りは終わり、下り基調になる。こうなれば負けない、100mくらい後ろに見え隠れするライトとの距離を常に意識してスピードをあげた。
足和田山塊を降りると、河口湖畔に出る。あとは湖畔を走るだけだ。とはいえ、ゴールと思える場所は湖のはるか先に見えていた。頑張るしかない。ひたすら走る。走る。走る。ペースは快調になる。キロ4分台では走れてたと思う。本当はそうでないかもしれないけれど、少なくとも本人はその気力で走ってた。

この区間長かった。でも、やがて終わりは見えてくる。フィニッシュ地区の明かりがだんだん大きくなってきた。ここまでくると、むしろもう終わりか、という気持ちの方が強くなる。
夜の7時過ぎ、寒い中だけど、フィニッシュ手前では多くの人が応援してくれた。
もちろん、みなとハイタッチ。フィニッシュのカーブを曲がると、鏑木さんの姿が見えた。

ゴール 169km 28時間24分7秒 58位(総合)、53位(男子)

ゴール後は思ったより元気だったと思う。
興奮気味に鏑木さんと少し会話をさせてもらった(天子ガ岳山塊の下りがハードだった、なんて話をしたように思う)あとは、少し付近の名も知らない方と会話をして、1kmほど離れた宿に戻った。
宿のおばさんは、2日目の夜に帰ってきたことにすごく驚いてくれた。
早速夕飯を用意してくれたのだけど、興奮が冷めて気付いたら胃がとんでもなく気持ち悪い状態のことに気付き、「あとで頂きますから」と丁寧にお断りして、風呂に入った後寝床についてしまった。

UTMF2014 完走記 その1 -2013の反省と2014の目標‐

このページに書き込むのは4年ぶりとなります。

 仕事が忙しかったことやFBの手軽さもあって、書き込みを休止していました。ただ、内容によってはこちらに書き込みをした方が良いと思う内容もあります。 今回もう一度ここに書き込みをしようと考えたのは、次のUTMF2015を目指すにあたり、UTMF2014の記録をどこかに残したいと思ったからです。

自分は、UTMFを走る前には装備やレース展開を考える際に、多くの人のブログを参考にしました。 同じように、この記事がもしかしたら他の誰かの参考になるかもしれません。だとしたらFBよりもこうしたブログの方が多くの人の参考になるチャンスがあるかもしれないと考えたからです。

【2013年の結果】

目標 27時間
結果 30時間00分57秒

初出場でした。それまでの最高距離は信越五岳110km

【2013年の反省点】

  ①レース前日の睡眠時間
12時近くまでスカイプ会議で仕事、5~6時間の睡眠時間。その結果レース中に睡魔が襲い、2日目の朝から昼にかけて合計90分程度横になって寝てしまった。

  ②下りの筋肉
太郎坊からの下りで大腿四頭筋がパンパンになり、その後歩いてしか下れない場面が何度もあった。特にひどいのが舗装道路(須走までの下りと富士吉田(最終エイド)までの下り) 靴の選定が無頓着でした。ノースフェースのHAYASAで出走。軽量でスピード重視の靴だからもちろんクッションがほとんどない。そのため後半の脚にかなり影響したと思う。 

中間のこどもの国まではほぼ想定通りで11時間48分。トップ選手のタイムをみると、こどもの国までのタイムの2.2~2.3倍程度で完走する選手が多い。そう考えるとここまでのタイムは悪くないので、後半タイムの低下が予想以上だった。 それ以外の身体のコンディション(胃腸、膝や腰の関節など)は概ね問題なし。

【2014年の目標と改善点】

コース距離が161kmから169kmに伸びたため、タイムは1時間程度伸びると想定。前回の経験から少し目標を緩め、28~29時間とした。目指した、改善点は以下の通り。

①睡眠
昨年大きな反省があったことから、改善点として、レース前の睡眠時間を重視。数日前から適性な睡眠時間の確保(7時間)に努めたこと、また前日は定時で退社し、夜のうちに移動して近くの民宿に素泊まり、午前中のレース前までゆっくりと過ごした。

②靴
UTMF2013の反省から秋にモントレイルのバハダを購入して信越の110kmを出走。この靴はクッションは良いのでほとんど問題は感じなかったけど、靴のソールのフィット感が今一つで、若干脚の動きに違和感があった。それで直前にラ・スポルティバのBushidoを購入。ダメならバハダで走ればよいと、試してみると、フィット感が高い。特に土ふまず周がしっかりしているのと、ソールが固めでグリップ感があるのも良い。これで169kmを走ることに。

③テープ
少しでも大腿筋の負担を減らすべく、大会の賞品でもらったままタンスの肥やしになっていたNEW HALEのテープを利用。さらに、キネシオテープを久しぶりに購入して膝と大腿部に張る。それと習慣化している固定テープでの足首テーピング(ねん挫予防)もしっかり行った。

④持参品
昨年、妻がハセツネ用に使っているグレゴリーの8Lを使用。ところがパンパンで余裕がなく、エイドで出し入れに苦労した。使わなかったルール以上の防寒具があったので、今年は少し取捨して同じバッグを使うことに。 雨具/ノースフェースの軽量なもの(トライアンフレインジャケット)、防寒具/モンベルのダウンジャケット(10年以上前に買ったもの/エイド休憩用)と、パタゴニアの軽量ジャケット(夜間走行用)、手袋/厚手の登山用と薄手の伸縮性手袋 水は650mLボトルの他400mLのプラスチックバック2個。ほとんどのエイド間は1Lもあれば十分のはずだが、天子が岳山塊は日中に5時間近くになる可能性があり、最大1.5Lもてるように準備した。(これが不幸中の幸いとなる) 食糧は、ドライフルーツ(レーズン、アプリコット、プルーン、干し梅)を約300g×2袋、羊羹4本、塩飴などを前半と後半にわけ、後半分はデポジット袋に。昨年の経験からエイドでの補給でほとんど賄えるので、今年は少し量を減らした。

【トレーニング】

直前6カ月について
2013年
11月 32時間 325km マラソン/2'49'30(筑波)、神流トレイル50km
12月 32時間 330km 10マイル/57'22、OL練習32km/3日
2014年
1月 24時間 271km ハーフ/75'37 月の後半風邪で休養
2月 27時間 285km 駅伝3.3km/11'59 後半雪
3月 40時間 366km トレイル練習34km+40km、OL練習27km/2日
4月 26時間 256km トレイル練習44km+24km(UTMF前の24日まで)

ここ数年冬場はロードが多く不整地(トレイルや森)の量が減るのだが、今年は2月の雪の影響もあり、1,2月まったく不整地を走れない。また1月2月はトレーニングの総量も積めなかった。3月からなんとか時間をつくって2週に1回トレイルを走るように心掛け、間に合わせた感じ。実際レース前には、トレイルを走る身体はある程度できてたと思う。

ただトレーニング量として100マイルを走るに十分だったとはいえません。 今の自分に500km、600km/月は正直難しいが、本当であれば350km/40時間は確保したいところでした。

金曜日, 11月 04, 2011

お山にいったi-phone

「さあ、おやまにでもいったんじゃない?」

われながら苦しい出まかせだと思ったけど、口に出してしまったものは戻せない。
息子はきょとん、とした顔でふーん、と分かったようなそうでないような返事をした。

最近3歳の息子がi-phoneをいじりたがって困る。
タップやフリックの動作は当然完全にマスターしていて、うっかりロックをかけ忘れると、自分の好きなゲームの画面を出して、ずーといじって遊んでいる。i-phoneはおもちゃでなくて、電話もメールも目覚ましにも使うツールなので、こちらとしては手元にないと困るのだけど、もってると息子が遊びたがるので休日はこまる。

ほとほと困って、休日の朝、子供が起きる前に棚の上の見えないところにおいといた。
そしたら朝、探しまわって「アイホンドコドコ?」としつこく聞くので、つい出まかせで答えてしまったのだ。


その日一日は息子の目に届かないように気をつけて過ごした。でも夕方になる頃にはそんなこともすっかり忘れてしまった。

===

夕食の頃になって少し心配した顔をして、「アイホン、マダカエッテコナイノ?」と聞いてきた。

「あ、いやあ、どうだろ、まだかな?」

「アイホンノオウチドコナノ?」「ヨルニナルトクラクナッチャウヨ、オバケデルヨ」
しきりに心配する。
しまった。ずいぶんとひどいウソをいってしまったもんだ。
でも今更しょうがないので、

「心配するな、もうすぐ帰ってくるよ」

といって、しばらくした夜に、
「かえってきたよ」
と見せてやった。

息子は「ア、アイホンカエッテキタ!」
と大喜び。
「おやまにいっておなかぺこぺこだからね、まず、ご飯食べなきゃ」
充電器につないで、また棚にあげた。

「ゴハンパベタラ(食べたら)、アシタノアサアソンデアゲルネ!」

そういったら、指をくわえたまますたすた寝床にいってコロンと寝てしまった。

木曜日, 10月 20, 2011

KatyとTaylor

僕はそれほど音楽に造詣が深いわけではないけれど、
人並の趣味としては嗜んできた。

初めに自分で買ったレコードは、ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブ・バンド」である。多分中2の終わり頃だった。

中学1年の頃はパソコンオタク気味だった。当時電気メーカに勤めていた父が、自社のパソコン(当時はマイコンといっていた)を買ってきたのをきっかけにのめり込み、パソコン雑誌を買ったり、Basic言語でゲームを作ったりした。当然友達もそういう系の人が多かった。

ただ、そのパソコンがすぐに時代遅れになり、当然自分で買うこともできないので、そのままパソコンという趣味を諦めた。今思えば、自分で選んで道でもないのだが、それが幸いしたかもしれない。

その変わりのめり込んだのがオリエンテーリングと音楽、特に洋楽だった。

ビートルズは二つ上の兄の影響だったが、その先の発展は自主的だった。主に英国ロック路線で、ポリス、レッドツェッペリン、クイーン、ポリス、解散後のジョンレノンなどを渡り歩いた。僕のティーンエイジは80年代だから、同時代のアーティストというよりも、当時すでに歴史になりかけたバンドばかりだった。

当時は結構聴きこむ方だったと思う。LP盤を買ってくると、家の洋間(そこにプレイヤーセットがあったのだ)の扉をぴしゃっと閉めて、歌詞カードを見て口ずさみながら聴いたものである。
そのアーティストのカリスマ性や音楽の旋律に涙腺が刺激されることもあった。若いだけ感性豊かだったのだろう。
だから当時買ったLPの曲は今でもそらで唄えるものもあるし、英語のスラング的言い回しを随分と勉強させてもらった。

何故か洋楽の男子に限られて、邦楽や女性アーティストには手を出さなかった。それが何故かは良く分からない。洋楽の方がクールだとカッコつけてた面もあるけど、実際邦楽には全く興味がなく、今でも80年代のアーティストは、後でカラオケで学んだ程度しか知らない。


ところが20代以降、僕の音楽の趣味は全く進歩しなくなった。
惚れるアーティストを探して聴きこんだりすることは皆無になった。オリジナルアルバムのストーリー性なんてものはどうでもよくなり、ベスト盤やチャート上位のアーティストの曲を適当に耳にして、音楽を消費するタイプになった。

多分大学以降はいろいろな世界が広がり、音楽に向けるエネルギーの割合が極端に減ったのだろう。
その間、音楽の媒体はレコードやテープから、CD、MD、電子データと変わった。

最近は自分も世間並みにi-podやi-phoneに音楽を貯め込んで聴いている。CDを買うこともあるが、i-tuneでダウンロードすることも多い。圧倒的に音楽を聴くのが便利になった。そのせいか、また少し音楽が自分の趣味として少しだけまともな地位に戻った。

ところが中身は、すっかり女性アーティストになってしまった。音楽に求めるものが、メッセージ性やカリスマじゃなくて、リラックス、癒しになったんだと思う。セリーヌ・ディオン、エンヤ、スウィート・ボックス、アヴリル・ラヴィーン、と宇多ヒカルなどなど。。。

そして最近のi-phoneの再生頻度を見ると、レディ・ガガも多いけど、テイラースウィフトとケイティ・ペリーが一番。
テイラースウィフトは、映画「ジュリエットからの手紙」のLove Storyという曲が琴線に触れて聴き始めた(ちなみにこの映画、どうってことない恋愛ものだけど、イタリアの風景がきれいで結構面白かったと思う)のだけど、そのあとのSpeak Nowというアルバムになぜかはまった。
このお嬢さんまだ22歳なので、ずいぶんとこれからが期待できそう。
ケイティ・ペリーはFireworkという曲から入った。Teenage Dreamからは5曲の1位が生まれて女性の記録だそうだが、確かにこのアルバムには良い曲が多い。
ちなみに、この二人、仲が良いとのうわさもあるらしい。

そういえば若い頃、自分も歳を重ねると、ジャズが好きになったり、あるいは演歌なんか聴いたりするのかなあ、と思ったことがある。残念ながらかそれとも幸いか、そういう嗜好にはならないし、これからあまり成るようにも思えない。

当時の演歌やジャズといった中年おじさんの趣味に思えていたものは、実はその年齢層の趣味ではなくて、その世代に流行った趣味、だったのかもしれない。
人は結構自分の若い頃の嗜好を引きずりながら歳をとるように思う。自分の嗜好を大きく変えるのは、よほど革新的な性格でない限り難しい。

だから、10年前眉毛を整えるのは若者の特権のようでオジサンはカヤの外だったけど、今では(若い頃に整えることを覚えた)オジサンたちがキリリとした眉をしている。ズボンを腰ではく管理職もぼちぼちいるかもしれない。
僕の場合、洋楽ロック、ポップスという趣味を引きずりながら歳を取ってきている。ヒップホップ系は耳にはするがあまりなじまない。これは僕が趣味を引きずりはじめた後に出てきたジャンルだからだと思う。

土曜日, 10月 01, 2011

水中毒

9月の休日予定をパズルのように妻と解きながら、僕のハセツネの試走の日が決まった。

生憎その日はまだまだ残暑厳しい天気予報だったけど、せっかくうまったパズルをもう一度崩す分けにもいかないので、予定通り荷物を用意して早朝の五日市に向かった。

秋のレース時には第一関門の月夜野駐車場まで2Lの水を持っていくのだけど、この日は3Lを背負った。おまけに途中でのリタイヤも想定して、1周分に少し余裕を見た2000kcalちょっとの食糧、防寒具、ヘッドライト、携帯、テーピング等などをキャメルバッグにつめる。背負ってみるとズシリと重い。
ずいぶんと鈍いペースで、武蔵五日市の駅前から71kmの長い旅に向けて一人ひたひたと走り始めた。

まだ7時前なのに蒸し暑く汗がすぐに噴き出てくる。26、7度はあるだろうか。早く標高の高いところに登ってしまおうと先を急いだ。

今熊山、刈寄峠、市道山と過ぎて標高は稼ぐけど、日も高くなるのであまり気温は下がらない。発汗量はすさまじい。短パンは海水パンツのようになり、サンバイザーのつばからは絶えず汗がしたたる。ペースは上がらないのに心拍は高い。高温の中のランニングの典型的症状であるが、辛さまでは感じないので、少しペースをゆるめて焦らず走ることにする。

醍醐丸で小休止する。ここまで2時間15分。一周10時間30分ペースくらいだろうか。日没前の下山ぎりぎりだけど、ライトもあるので無理はしまい。
予備に用意した500mLの水がおいしく一気に飲んだ。その後ハイドレーションの残りの水を見て愕然とする。すでに残り1Lちょっとしかない。ここまでで2L弱の水分をすでに飲んでしまった。

地図を広げて水場を確認。三頭山の先まではおろか、西原峠までも持つまい。浅間峠の先の日原峠付近に滴マークがある。そこで給水することにした。

そこから1時間あまり、水を節約しながら走ってようやく日原峠に着く。右手の斜面をコンタリングする下山道を少し進むと勢いよく水の流れる水場がある。水を手ですくって何口かがぶ飲みした後、ハイドレーションとペットボトルすべてに3Lつめた。これで御岳山手前の水場まで持つだろう。気を取り直して走りはじめる。

その後三頭山までは問題なかった。汗かいて水分補給して、時々カロリーも補給しての繰り返し。。。。。

初めに異変に気付いたのは 鞘口峠の当たりだろうか。

まず水が妙にまずく感じるようになった。口にしても飲みこむのがつらい。

そのうち無意識に口の周りをなめていることに気づく。身体が塩気を欲している。

月夜見の駐車場で休憩を取る。かばんをあけると、残りの食糧はおにぎり1個と、ドライフルーツ、ジェリー飲料。ナトリウムを補給できるのはおにぎりと、ドライフルーツに交じった乾燥梅の塩気くらいである。ドライフルーツからしょっぱい乾燥梅だけつまんで口にした。

気を取り直して御前山に向かうが、登りの途中から急にペースが鈍った。力が入らない。汗は相変わらず滝のようにかくが、水が飲めない。しかたなく最後にとっておいたおにぎりを食べる。しょっぱさが身体に染みるようにおいしい。水が飲める状態になったので補給する。またひたすら登る。

御前山の頂上から少し下った所に水場がある。しばらくそこで考えた。水も食糧もある。でも手持ちの「塩」はない。ここに来るまで7時間30分あまりのうちに6L以上の水を飲んだ。

塩分が不足している。

これ以上山道を進むのはリスクがあるように思えた。
御前山から南東に伸びる尾根のエスケープルート、標高差1000m以上を1時間あまりで下り、車道に出た。車道沿いのしがない商店の前にある自販機でスポーツドリンクを買い、一気に飲み干した。これほどスポーツドリンクがおいしいと思ったことはない。
そこから武蔵五日市まで1時間30分、とぼとぼジョグして戻った。

水、食糧には十分注意した。外傷、捻挫にも気をつかった。ライトの球切れ、電池の予備にも配慮した。防寒もしかり。山を走る時は、特に一人であれば、あらゆるリスクを想定して走るのが、一種の義務である。
ところが、塩がこうした事態を生むとは思いもしなかった。まさに想定外である。
振り返ってみると、10時間あまりの時間に8L以上の水分を失っている。それとともに電解質の多くが汗として身体から流れ出た。相当量のナトリウムを補うには、通常の食糧に含まれる塩分ではとても足りなかった。

その日結局70kmほど走ったけど、追いこめなかったので筋肉痛はそれほど残らなかった。その変わり2,3日はしょっぱいものばかりが欲しい状態が続いて、ラーメンを汁まで飲んで周りの人を驚かせた。

それが「水中毒」という症状であることを知ったのは、その後妻と話た時である。水中毒は棄権な状態で、水飲み競争で大量の水を飲み、死亡した例もあるとのこと。

運動時に大切なのは、水を補給することではない。身体の中の電解質のバランスを保つことなのだ、ということを改めて痛感した。

それにしても身体は正直である。あれほど水を不味く感じたことはない。逆にしょっぱいおにぎりをおいしいと思ったことはない。
食や飲料は、ただただ身体の欲求に素直に応じるのが、一番健康的で身体に良いのではないか。
我々が気をつけなければならないのは、身体の欲求を抑えることではなくて、その後の惰性を抑えることなのではないか、と思った次第である。

まだまだ学ぶことはたくさんある。

月曜日, 9月 05, 2011

夏の記録

7月
北丹沢トレイル 44km 登2700m 5時間18分 レース
富士登山競走+5合目への下山 30km 登3000m 往復5時間10分 レース
高尾陣馬往復(帰り大垂峠経由) 34km 登1700m 3時間50分 単独

8月
東照宮~女峰山~霧降の滝~東照宮 24km 登2200mm 6時間40分 妻と
大弛峠~甲武信岳~大弛峠~金峰山~大弛峠 27km 登2300m 5時間50分 単独
本栖湖畔~竜が岳往復 7km 登570m 1時間15分 妻と
高尾陣馬往復+α 31km 登1400m 4時間 妻と
*すべて早朝出発の日帰り。竜が岳はホテルの朝食前に。

夏の終わり

多分入社して以来一番良く働いた8月が終わり、気が付いたら9月になった。
仕事も少しだけひと段落ついたので、たまたま遅めの新幹線で出張だった1日は、直接品川駅に向かうことにしてのんびりした朝を迎え、いつも顔を合わせない子供たちと朝食を一緒にとった。

ちょうど初登園日の娘は、食事後に制服に着替える時になってめそめそ泣き始めた。夏休みを終えた後に誰もが感じるブルー。これから年中仕事をしなくちゃならない歳になるまで、そう少なくとも15年は同じ憂鬱を毎年感じなきゃならんのだよ、きみは。5歳の娘にも小さな人生の試練である。

妻いわく、一旦幼稚園に行ってしまえば楽しいらしい。社交的に見える娘も、根っこの部分は僕と同じで、外に出る時に少しだけエネルギーを使うのだろう。3歳の、こちらは妻のDNAを受けて根っから人懐っこい息子がメソメソ泣く娘にいちいちかまう。娘は妻に連れられてしぶしぶと幼稚園に向かった。

夏も終わり秋である。

先日、美容院にいった。
髪の毛を切っている間はいつも担当の女性とたわいもない話をする。夏も終わりになりかけていたので、当然のことだけど話題は夏休みになり「どこに行きました?」と聞かれた。
聞かれて、自分の夏をひととおり思い返してみてた。はて、「行った」となると、そういえばどこいったろう?と言葉につまった。いや、行ったといえばいろいろある。今夏登った山の名前が頭を一巡する。そして、つい「富士山」と答えてしまった。そして直後にしまった、と少し後悔した。

「富士山に登る」というのは話のネタとして不足がない。特に彼女は海大好き人間だから当然富士山なんて登ったこともなく、どうやっていくのかとか、どんな装備なのか、とかそんな話になる。僕はこの美容院では、自分の趣味について一度も話したことがなかったから、少し困った。でも、ごまかしてもしょうがないし、いや実はしかじかこういう趣味でして、、、と自分の少し変わった趣味をはじめから説明してから富士登山競走をざっと説明した。

美容師なんて、毎日たくさんの人を相手にしているのだから、色々な個性、突拍子もない話題に幾度となくめぐり合うのだろう。だから少し突拍子もない話に、驚いてはいたけど、呆れた様子もなかった。ひとしきりの反応と賛辞でそつなく答えた後、彼女は自分の海辺の清掃ボランティアの話をして、そのまま、自然と話題は別のところに流れていった。

その日は運よく新入社員の子が洗髪を担当してくれた。多分見習いなので練習も兼ねてるのだろう。ベテランよりも丁寧に念入りに肩や首のマッサージをしてくれるから客としてはこちらの方が良い。聴けば彼女は仕事に慣れるのに精いっぱいで休みなんてないそうだ。でもそれが今一番楽しいのだそうだ。見かけによらず見上げたお嬢さんである。彼女の歳の頃の自分なんて、勉強さえろくにせず休みのことばっかり考えていたのに。

ずいぶんとさっぱりした。いつもぼさぼさ頭になって、美容師から見ると末期症状になってから訪れるからだろう。「次は10月の20日ですよ。予定表に書いておいてください!」と、担当の女性に念をおされながら店を後にした。

帰り道、自分の夏について少し考えた。

あまり深くも考えてみなかったけど、そういえば夏の過ごし方が変わった。今年、余暇での外泊は1泊2日の家族旅行のみ。あとは夜明け前の出発で日帰りのトレイルランを走ったことは何度かあるけれど、それも単独か妻と二人。友人と過ごした休暇はほぼ0だ。そして自分もそんな夏を過ごしていることにあまり違和感がなくなっている。

30歳前半までは必ず1週間以上の海外遠征をし、週末は合宿で皆で競い、あるいはグループで山登りにいったりして、夏の休暇は家で夜を過ごすなんてほとんどなかった。

一方で今、仕事では北海道から九州まで毎週どこかに脚を運ぶ。自分の出張に仕事の意義も感じるし、モチベーションにもつながる。だから平日の充実感、達成感はここ数年で飛躍的に向上した。

自分のアイデンティティを感じる瞬間が、週末から平日に少しづつシフトしている。子育て時期の中間管理職サラリーマンなんて、平均的にはそんなもんだろうか。だから全体として充実しているようで、どことなく夏を楽しみきれなかったような寂しさがどこかに残る。

少し長いスパンでみれば、子育てが次のステップに入って、仕事の質も変わるだろう5年、10年後はまた違う夏の過ごし方があるかもしれない。
でも、ここしばらくは、小市民的にちょこちょこと夏を楽しむのがきっと今の自分の身の丈にあってるのだろう。

信越100mile 2022

<レースの記録を忘れていたので後から記載>  START 18:30  日没して約30分、暗闇の中スタート。序盤はスキー場の中の登りとトラバースを繰り返す。 2,30分で下りからロードに出てそこからは比較的平坦のパートが続く。1時間30分くらいで斑尾山に向けて急登が始まる。...