以前読売新聞で、荻野アンナが、いかに自分がドジかを赤裸々に描いたコラムを書いていた。読んで妙に共感を持ったのだが、それ以来「ドジ」というどこか懐かしいこの言葉が好きになった。
何か自己管理能力の欠如をごまかしてるような表現だけど、「まいいか」とおおらかに許容できる範囲だったら、ドジの一言で片付けちゃったほうが気楽な部分もある。ちなみに、そのコラムを読む限り、荻野アンナも相当にドジな人だ。多分僕以上は確実で、僕の周りにいるドジチャンピオンと争えるくらいだと思う。
ドジな人はしょっちゅう、プチ自己嫌悪に陥る。時には本当にビョーキなんじゃないかと我ながら心配になることがある、
電車の乗る方向を間違えるは日常茶飯事、改札の手前ではいつもおろおろとポケットに手を突っ込んで切符を探す(そしてかなりの確率で見つけられない)。更衣室のロッカーのカギがなくなって、さんざん鞄をひっくり返して探したあげく、返却してしまったことを思い出す。合宿で短パンに履き換えようと鞄から出したら妹のキュロットスカートだった、同じくパンツと思ったら靴下だった。。。
ドジはなおした方が多分良い。でもなかなか人間生来の性質をなおせるもんじゃない。
僕は医学も生命科学もからっきしわからないが、ドジはある遺伝子の欠陥なのではないか、と根拠もなく確信する。僕の場合、ほとんどは母親からの遺伝と思う。でもすました顔した親父にも実は少しその破片があって、2割くらいはそちらからだろう。
でも、そうだとしたらそもそもドジの「遺伝子」がなんで現代に生き残っているのか?まったく生活能力がなく無駄をもたらすドジ遺伝子は、とっくに淘汰されてもいいはずなのに、なぜか、僕の観察するに、10人いれば1,2人の身体にドジの遺伝子が生きている。
動物行動学の竹内久美子さん(そういえば彼女も同じ読売のコラムを書いている)風に考えれば、ドジにはドジの適応戦略があって、ドジの利己的遺伝子は今まで生き抜いてきたことになる。
そうするとドジの適応戦略は何だろう?
ドジな自分の勝手な説だけど、僕が思いついたのは2つの戦略である。名付けて「危機管理戦略」と「保護者獲得戦略」
ドジな人は生まれた時からドジである。だから、小さいころからいろいろと痛い経験をしている。そのうち、自分がドジなことを前提に行動、考えるようなくせがつく。つまり自分はドジだから、いざっという時にそのドジが出ないように、また出た後でもなんとかなるよう工夫する。少しそれっぽい言葉をいえば、ドジな自分に対する危機管理能力が身につくことになる。
例えば、財布や携帯をなくしてもパスポートはなくさない。ガス欠で車が止まるのは、その後の予定がなんとかなる時だけ。勘違いしたり、忘れたりするスケジュールは自分がいなくても大丈夫な会議である。書類の細かいミスはあっても重要な数字の桁だけは間違えない。
まあ、それでも十分まずいといわれそうだけど、最悪の事態だけはさけることが知らず知らずのうちに身についてくる。
ちなみに、僕が知るもっとも偉大な「ドジ」村越真は、「絶対大事なところはミスしない」という点を常々主張していたが、言葉の言い回しが違うにしろ、この危機管理能力が備わったドジのことをいっていたのだと思う。
もうひとつはまわりとの融和である。荻野アンナさんも書いていたが、ドジな人は他人のドジに寛容になる。自分もいつドジするかわからないから他人の「ドジ」を責められないし、つい共感してしまう。
その結果どうなるだろう?おおらかな性格になり、必要以上に敵をつくらないで味方を増やす。
さらに、これは僕の観察によると、もっと戦略的ドジはチャーミングな「世話を焼きたくなるオーラ」を発して、なぜかしっかりしたパートナーや、お姉さん、お兄さん的な友人をまわりに呼び込む。そして本人のドジがひどいことになる前にまわりが救ってしまう。
ただここまでくると、なぜか女性ドジ限定の効果のようである。残念ながら男性ドジはドジなままほっておかれることが多い。
これらの戦略をドジ遺伝子はとる。その結果、ドジ遺伝子は社会生活で破綻することなく適応していくのではないか。
僕の仮説である。
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ひとつのエピソードがある。
もう5年以上前だろうか。愛知の世界選手権前のこと。
1日でも多く練習を三河の森で過ごすことが選手にとって一番大切だったころのこと。
春先にイギリスチームのトレキャンがあった。確か平日だったと思うが、僕は有休をとって愛知に向かい、チームメートの女性2人とレンタカーを借り、練習に合流させてもらったことがある。
その日はひどい雨の中だった。急な三河の森なので、練習後当然体中泥んこだらけになる。雨の中イギリスチームと分かれ、田んぼ沿いのあぜ道に止めた小さな車の脇で3人は急いで着替えて車に乗り、そこから小一時間かけて宿舎に戻った。
僕はその時、、ドジ、をしていた。
替えのパンツをかばんに入れるのを忘れていたのである。濡れたパンツをはくわけにもいかないので、しょうがなくそのままトレーニングウエアを着て車を運転していた。白状すればそれほど珍しいことではないので、まあ1時間我慢すればいいやと思ってた。
ただ、なんとなく居心地が悪いので、あまり会話をしなかった様に思う。幸いほかの2名も口数が少なかったように記憶する。
1時間後、無事宿につき、めいめいシャワーを浴びて着替えた。
これは後になって片方の女性から聞いてわかったことである。あの時とんでもない偶然が起こっていた。
誰も車内では口にしなかったけど、あの車の中、誰もパンツを履いてなかったのである。
そう、3人とも同じミスを犯していたのだ。
当時チームでもうっかりものといわれてた3人とはいえ、あまりの偶然に聞いた時は笑い出してしまった。
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話はそこまで。
ここでドジの適応戦略を考えてみる。
3人とも忘れ物はしたけど、それがパンツなところにミソがある。
つまり、トレーンニングウエア(の特に下)ではなかったこと。もしウエアの下を忘れたらどうだろう?
パンツ姿で帰るか、濡れて泥んこになったOウエアでそのまま帰るしかない。パンツを忘れた場合より深刻だ。つまり3人は最悪の事態は回避していた。知らず知らずのうちの危機管理、といえなくもない。
おまけにもうひとつ、偶然かもしれないが、2名の女性(これは名誉のために名前はあかさないが)はともに、チャーミングかつおおらかで、人に愛される人柄だということ。だからドジをしてもなぜか許されるし、笑い話で終わるのだ。
こうしてみると、ドジにはドジの生き方がある。実際僕も会社を首にされず、社会生活を営むことができている。
いや、とくに女性のドジは意外と侮れず、実はちゃっかりものなのかもしれない。
少し都合のいい結論だが、ドジ遺伝子とあと半世紀ちかく付き合っていかなければいけない自分にとってみれば、むしろ「愛すべきドジ」と考えたい。
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