「あっ止めて!!」
妻の悲鳴交じりの声で、慌てて車道脇に止めて後ろの席を振り返った。
「あーあーあー」
妻の咄嗟のハンカチも空しく、娘はさっきサービスエリアで飲んだヨーグルトを全部吐き出していた。
「今まで車酔いなんかしたことないのに、調子悪いのかなあ」
本人はけろっとした顔をしてるが、婆に買ってもらったおませな赤い服はびしょびしょでだいなし。
もともと僕の寝坊で出発が遅かった上に予想外のピットイン。時計はそろそろ妻のスタート時刻の1時間前に近づこうとしている。妻も僕もしょうがないと思いつつも一瞬険悪なムードを感じた。
ふと昔の記憶がよみがえった。
調度10年前、当時世界チャンピオンだったノルウェーのペター・トーレセン一家が来日した時のことである。隔年のWOCの時代に3つもの個人金メダルを取ったペターは精悍な顔つきも相まって当時ノルウェーの英雄だった。日本側に招待されたトーレセン夫婦は、6歳から5ヶ月の3人の子供を連れ一家5人で年末年始の極東を旅した。当時ペターが憧れの存在だった僕は、接する機会を逃すまいと、東京でのホストを買って出たのである。
ちょうど、一家を連れて七国峠で開かれた練習会に連れて行く途中だった。同じような田舎の街道で、長男のヨルゲン君が車に酔い、ノルウェー語で泣きながら父に訴え、ついにはもどしてしまった。初めての体験だったらしく、驚きで放心状態の息子。「すまない」を繰り返しながら、車の中を拭き、道端の植え込みで息子の背中をさする父ペター。華やかなウイニングランをする世界チャンピオンである以前に父親なんだなあ、と当時何ともなく感じたのを覚えている。
閑話休題
そんな記憶が甦ると、いらいらもどこかにしぼんできた。娘の着替えも終わり、慌てて会場に向かう。駐車場につくなりスタートの早い妻は早足で会場に向かった。娘を乳母車に乗せて後を追う。
会場はウエルサンピアのプールサイドだった。
運営者に落ち度はない。99%の参加者には何の問題もない。
しかし子連れになると、まったく違う視点になるものだ。手すりもないプールサイドの会場は1歳半の娘を連れて行くにはちょっと不安な場所だった。
先についていた妻も同じことを感じていた。
「あなた、今日は走れないと思ったほうがいいかも」
今日は妻が先にスタート。僕は妻が帰ってくるか、あるいは誰か知り合いに娘を託さなくては走ることは出来ない。
この日は渋谷のメンバーもほとんど参加していなかった。あるいは仮に参加していても預けるのは難しい年頃になった。ひょこひょこ歩くようになった今、ましてやプールサイドでは、気軽に誰かに預けるわけにも行かない。預かるほうにも余計な心配、迷惑をかけてしまうだろう。
一応着替えてみたものの、正規スタートをあきらめる覚悟を自分に言い聞かせ、気長に娘と待つことにした。
先程の車内のひと騒動なんてどこへやら、娘は枯葉の山を歩いてみたり、空き缶を拾ってなめてみたり、ふらふらふらふら付近をはいかいする。
会場はやがて人の数も減り、閑散としてきた。時計を見ると11時15分、正規スタートまで30分もない。自分より遅いスタートの選手も会場を後にしはじめた。せめて12時15分のスタート閉鎖までに間に合って山を走りたいなあ、そんなことをぼんやり考えはじめた。
向こうから宮川さんが現われる。今日は役員をしているはずだ。いつものようにこちらを一直線に見て向かってくる。強化委員会の件?今はそんな気分ではないなあ、もしかしたら露骨に嫌な顔をしていたかもしれない。
「娘みててやろっか」
へっ? 思いもよらない助け舟。
「でも役員のお仕事はいいんですか」
午前中は参加者もいないし仕事はほとんどないとのこと。宮川さん自身も子育てをしながらオリエンテーリングをした経験から、僕の心の内を見透かしているようだった。調度娘は少し前から眠そうに地面に転がり始めていた。ベビーカーに乗せると幸いなことにコロっと指をくわえてまどろんだ。ここで決心。
「妻はあと30分程度で帰ってくると思います。このまま寝ると思います。食事はさっきしたばかり、おむつも大丈夫のはずです。」最低限の引継ぎ事項を述べながら、お礼を付け加え、大慌てでコンパスとEMITを握ってスタートに向かった。時計はスタートの18分前、速めジョグで行けばまだ間に合うはず!最後にトイレに向かいたかったが、そんな贅沢は言ってられない。
「面倒みたかいがあった」宮川さんが喜んでくれた。娘は宮川さんの看護のもとしっかり昼寝し、また元気に遊んでいる。妻も悔しがりながら自分なりのレースを楽しんだ。場当たり的だけどみな結果オーライ。
10年前の晩餐、次のシーズンに開かれるPWTアジアツアーに参加するのか?とペターに聞いた時、ちょっと答えを躊躇した後に、「マイ・ボスが決めるよ」と妻をちらっと見た。トーレセン婦人は笑いながら、「どうしようかなあ」といったジェスチャーを見せたことがある。
その頃、家族の都合でスケジュールが左右される世界チャンピオンに驚き、違和感を感じた。周りのすべてが自分のパフォーマンス向上に向かうべきだと感じる錯覚。20代の頃はそれが原動力だったのだろう。当時31歳で既に頂点を極めたペターは、その一歩先で競技を続けていた。
今の自分は既に37歳。ペターの域に少しは近づくことができたのだろうか。
妻の悲鳴交じりの声で、慌てて車道脇に止めて後ろの席を振り返った。
「あーあーあー」
妻の咄嗟のハンカチも空しく、娘はさっきサービスエリアで飲んだヨーグルトを全部吐き出していた。
「今まで車酔いなんかしたことないのに、調子悪いのかなあ」
本人はけろっとした顔をしてるが、婆に買ってもらったおませな赤い服はびしょびしょでだいなし。
もともと僕の寝坊で出発が遅かった上に予想外のピットイン。時計はそろそろ妻のスタート時刻の1時間前に近づこうとしている。妻も僕もしょうがないと思いつつも一瞬険悪なムードを感じた。
ふと昔の記憶がよみがえった。
調度10年前、当時世界チャンピオンだったノルウェーのペター・トーレセン一家が来日した時のことである。隔年のWOCの時代に3つもの個人金メダルを取ったペターは精悍な顔つきも相まって当時ノルウェーの英雄だった。日本側に招待されたトーレセン夫婦は、6歳から5ヶ月の3人の子供を連れ一家5人で年末年始の極東を旅した。当時ペターが憧れの存在だった僕は、接する機会を逃すまいと、東京でのホストを買って出たのである。
ちょうど、一家を連れて七国峠で開かれた練習会に連れて行く途中だった。同じような田舎の街道で、長男のヨルゲン君が車に酔い、ノルウェー語で泣きながら父に訴え、ついにはもどしてしまった。初めての体験だったらしく、驚きで放心状態の息子。「すまない」を繰り返しながら、車の中を拭き、道端の植え込みで息子の背中をさする父ペター。華やかなウイニングランをする世界チャンピオンである以前に父親なんだなあ、と当時何ともなく感じたのを覚えている。
閑話休題
そんな記憶が甦ると、いらいらもどこかにしぼんできた。娘の着替えも終わり、慌てて会場に向かう。駐車場につくなりスタートの早い妻は早足で会場に向かった。娘を乳母車に乗せて後を追う。
会場はウエルサンピアのプールサイドだった。
運営者に落ち度はない。99%の参加者には何の問題もない。
しかし子連れになると、まったく違う視点になるものだ。手すりもないプールサイドの会場は1歳半の娘を連れて行くにはちょっと不安な場所だった。
先についていた妻も同じことを感じていた。
「あなた、今日は走れないと思ったほうがいいかも」
今日は妻が先にスタート。僕は妻が帰ってくるか、あるいは誰か知り合いに娘を託さなくては走ることは出来ない。
この日は渋谷のメンバーもほとんど参加していなかった。あるいは仮に参加していても預けるのは難しい年頃になった。ひょこひょこ歩くようになった今、ましてやプールサイドでは、気軽に誰かに預けるわけにも行かない。預かるほうにも余計な心配、迷惑をかけてしまうだろう。
一応着替えてみたものの、正規スタートをあきらめる覚悟を自分に言い聞かせ、気長に娘と待つことにした。
先程の車内のひと騒動なんてどこへやら、娘は枯葉の山を歩いてみたり、空き缶を拾ってなめてみたり、ふらふらふらふら付近をはいかいする。
会場はやがて人の数も減り、閑散としてきた。時計を見ると11時15分、正規スタートまで30分もない。自分より遅いスタートの選手も会場を後にしはじめた。せめて12時15分のスタート閉鎖までに間に合って山を走りたいなあ、そんなことをぼんやり考えはじめた。
向こうから宮川さんが現われる。今日は役員をしているはずだ。いつものようにこちらを一直線に見て向かってくる。強化委員会の件?今はそんな気分ではないなあ、もしかしたら露骨に嫌な顔をしていたかもしれない。
「娘みててやろっか」
へっ? 思いもよらない助け舟。
「でも役員のお仕事はいいんですか」
午前中は参加者もいないし仕事はほとんどないとのこと。宮川さん自身も子育てをしながらオリエンテーリングをした経験から、僕の心の内を見透かしているようだった。調度娘は少し前から眠そうに地面に転がり始めていた。ベビーカーに乗せると幸いなことにコロっと指をくわえてまどろんだ。ここで決心。
「妻はあと30分程度で帰ってくると思います。このまま寝ると思います。食事はさっきしたばかり、おむつも大丈夫のはずです。」最低限の引継ぎ事項を述べながら、お礼を付け加え、大慌てでコンパスとEMITを握ってスタートに向かった。時計はスタートの18分前、速めジョグで行けばまだ間に合うはず!最後にトイレに向かいたかったが、そんな贅沢は言ってられない。
かつて梅薗の名前で知られた今回のテレイン。思い越せば調度20年前、高校1年生の全日本で優勝した思い出のテレインである。山岳テレインではあるが、ただタフなだけでなく、ルートプランニングや急斜面でのナビゲーションが鍵を握るはずである。案の定レースは、一筋縄ではいかないレッグが多く、慎重なプラン、アタックを要求された。過度な緊張を生まないトラブルがかえって幸いしたのか。集中力は適度にコントロールされ、ほぼミスなくレースは進んだ。予想以上にコースはあっさり感じられ、終盤のコンピにきたときは「もう終わり?」と物足りなささえ感じた。最後の15での1分ミスは余計だったが、感覚的には合格点のレースでラストレーンを走り抜けた。
俊介と13秒差の2位。「やっぱり」感が強い。いいレースだったけど、勝つのは甘いと感じたとおりだった。つめの甘さは相変わらずだが、ベースのスピード、ナビゲーションはMEでトップを争そえる位置までは戻った。素直に喜ぶべき結果だろう。「面倒みたかいがあった」宮川さんが喜んでくれた。娘は宮川さんの看護のもとしっかり昼寝し、また元気に遊んでいる。妻も悔しがりながら自分なりのレースを楽しんだ。場当たり的だけどみな結果オーライ。
10年前の晩餐、次のシーズンに開かれるPWTアジアツアーに参加するのか?とペターに聞いた時、ちょっと答えを躊躇した後に、「マイ・ボスが決めるよ」と妻をちらっと見た。トーレセン婦人は笑いながら、「どうしようかなあ」といったジェスチャーを見せたことがある。
その頃、家族の都合でスケジュールが左右される世界チャンピオンに驚き、違和感を感じた。周りのすべてが自分のパフォーマンス向上に向かうべきだと感じる錯覚。20代の頃はそれが原動力だったのだろう。当時31歳で既に頂点を極めたペターは、その一歩先で競技を続けていた。
今の自分は既に37歳。ペターの域に少しは近づくことができたのだろうか。
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