連日、日本を始め世界中の株価が下落しているという報道が続いている。テレビでは個人投資家の悲鳴のような声が繰り返し映し出されている。
メーカで技術職に従事しており、個人投資をしているわけでもないのでこの手の話題にはあまり敏感ではないが、大学の教養では少しは経済も学んだし、今でも新聞に一通り目は通すので世間一般常識程度はあるだろう。
それでも、株価が何百円上がった落ちただのと新聞一面の見出し記事を見ていると、何故ここまで経済情勢が世の中重視されるのか不思議に思うことがある。そもそも、東証の株価を見ては一喜一憂するよりも、週末の天気予報に一喜一憂する人生を好んで生きているせいだろうか。どちらも個人の力ではどうにもできない巨大な流れという点は一緒だが、人が作り上げた経済という波に飲まれるよりも、偉大な自然に弄ばれる方が素晴らしいではないか。と考えてしまう。
そもそも僕は「お金は労働の対価」だと思っている。付加価値の対価といってもいい。古い考え方と笑われそうだが、少なくとも普通にサラリーマンをしていれば、この価値観で十分幸せな人生を送れる。
投資や株を進める金融の専門家は、「お金がお金を増やす」という言葉を使う。お金を銀行に預金したり箪笥に入れておくのは愚かだと表現する人もいる。でもなぜお金が増えるのか?僕にはわからない。
仮に1本のジュースを作って100円で売ったとする。その人は100円を得る。ジュース1本の対価だ。投資はこの100円を200円に増やすことができると唄う。ジュース2本分を買えるわけだ。では残りのジュース1本にあたる付加価値は誰が作ったのか。投資をするだけではジュースは生まれない。あるいは誰か他の人がつくったジュースを得たことになるのか。
賭け事ならわかる。100円で200円を得た人がいる一方で、ジュース1本をつくって得た100円を取られた人がどこかにいるのだ。では投資で100円が200円に増えることの意味は?株価が上がれば株を持っている人皆の資産が増える。誰も損をしない。どういうことか?
僕が経済について感じる、この素朴な疑問をすっきりと説明してくれた人はいない。
僕の勝手な解釈はこうだ。
投資はここで幻のジュースを1本つくる。もちろん実際にはないのだが付加価値があるように見える。幻のジュースが世間皆があると思っている限り投資で増えた200円は実態を持つ。ところがこの200円をジュースに変えようとした時、例えば飢饉が訪れ、現金よりもジュースが欲しくなった時、現実にはジュース1本しかない。その時200円はジュース1本分の100円の価値に下がってしまう。
結局投資ってそういう性質のものではないか。価値が上がり続けるわけはなく、どこか実在のもの、ここではジュースの価値に戻る時がくるのではないか。ただ賭け事のように同時に得をする人と損をする人が存在するのではなく、ある時期皆で得をして(あるいは得をしたように見えて)、ある時期皆で損をしたように見えるだけなのではないか。
ミクロに見ればお金をあっちからこっちに動かすことで、利益を得ることができるかもしれない。でもそれは金融のプロが商売として必要な分やればよい。マクロに見れば世の中皆で投資熱を上げても、お金を動かしても、この世の中の付加価値は増えないし幸せにもなれない。結局ジュースをつくるのは尊い労働の結果なのだ。
そう考えると株価が下がって一々大騒ぎしていることは、傍観者的にはたから見ていると空騒ぎのように思える。
金融・経済の知識・資産管理は現代を生きる上での必要なスキルだ、という人もいる。金融に無頓着なことに対する不安をあおる本は本屋に沢山ならんでいる。でも本当にそうだろうか。無頓着に銀行に貯金をして、知識のある人よりも多少財産が目減りしたところで、それでいいのではないか?
金融商品やネットの株価に毎日目を光らせるエネルギーと時間を、自分の健康管理や自然の中でのリフレッシュにまわす人生と、どっちが幸せか? もちろん僕がアウトドア派だからそう思うだけで、偉大な音楽や美術、広い世界の多様な文化に触れる楽しみ、もっと素朴に家族の時間、いくらでも素晴らしい世界がこの世の中にはあるのだ。資産管理なんかに自分のリソースを裂くのはもったいなくてしょうがない。
そもそも金融のプロには、お金の素人に投資を進めるよりも、お金に無頓着でも損をしないような社会づくりを進めてもらいたいものだ。それが万人の豊かさにつながるのだから。
昨今は中高はおろか小学校でも株投資の簡単な実習をして、経済の勉強をするという。
そういうスキルを学ぶ時間があったら、悪天候の中でテント張って、自然の怖さと美しさを学ぶ方がよっぽど人間形成には必要なスキルのような気がする。みんなで株投資して皆でハッピーになろう、なんて子供たちが思うようになったら、末恐ろしい。この世の中誰かが地道にジュースをつくらなければいけないのに。
金融関係などに勤める友人も多くいるし、そういった友人の熱心な仕事に水を指すつもりはないけれど。 たまたま本屋で立ち読みした本と、今の経済情勢を見て徒然に感じたままを書きました。
水曜日, 1月 23, 2008
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3 件のコメント:
いろいろな話題があるので、なぜ金融や資産運用の知識が必要か。年金や保険に入っている以上(会社員だったらみなそうだよね)、株式市場の動向や国債の動向(国のお金の使い方、金利動向)と無関係でいられない。もちろん、今までの日本人の大半のように、「自分は知らないよ、でも誰か僕の年金ちゃんと運用していてね」とも言えるけど。まあ、それでまかせっきりの年金の運用がうまくいかなくなって(実際解散している厚生年金基金多いよね)、も文句は言えないよね。
ちなみに、何も考えずに銀行(特に郵貯)に預金するのは、ある意味、銀行の国債運用や財投(郵貯なら)にお金を回すことであって、まあ、国の無駄遣いを負担することにもなる。もちろん、それについても、いやー自分は知らないよ、お金を預金しただけなんだと言えるけど、日本人の大半がそれをやった結果が、国が「予算は大幅赤字だけど、借金の相手が(財政が悪くなったら返せという外国人でなく)国民だから大丈夫だよ」と言っている現在の状況を作っているんだと思う。
金融や資産運用の知識を持つことは、資本主義で生きていく以上、一経済人としての責任とも言えるんじゃないかな。政治について感心を持ち選挙に行くことが民主主義社会に住む一つの責任であるように。あ、そっか、日本は社会主義だったっけ。
もちろん、人生における価値観や優先順位は全く別問題だよ。
コメントありがとう。自分でもちょっと偏った見方かなと思ってるけど。
結局はやっぱり価値観の問題だね。
今の日本は、株式市場をはじめとした経済動向と無関係に生きてはいけない。それは事実だけど、銀行に預けたお金が国の無駄遣いに繋がる理由はやっぱりわからないし、そのことで銀行にお金を預けるか否かは決めないなあ。
経済人として資産運用の知識を持つ責任はあるかもしれない。でも、振り込め詐欺やねずみ講に引っかかる人が後を立たないし、やっぱり専門家が見る以上に一般人にはお金の管理は難しいんだと思う。だから(銀行でなくても)どこかにお金を預けておけばとりあえず安心という場所を、作るのが金融界の役目じゃないかな。
なんか大げさだけど、この世界に住む全人類がそそぐエネルギーに占める「金融・経済」の割合が大きすぎてもっと減ったほうがいいんじゃないか、と思うんだよね。なぜ?ってお金は手段であって目的ではないから。それ自体はなにも生まないし。
もっと人生の目的になるようなことに皆がエネルギーを注げるようになれば、より幸せな世界になると思う。
だから金融のプロには、そういう安定した経済を目指して創意工夫してもらえればって思うんだよね。
少し理想主義的すぎるかもしれないけれど。北欧の成熟した社会に憧れるだけあって、半社会主義的発想になってるかな?
北欧では、政府が将来の世代のために国民の資産を世界の株式市場に投資しているからね。国民が将来を不安に思わず暮らせる要因の一つかな。ほとんど使われない道路を作ることが将来のための投資といっている日本政府と大きく違うね。
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